2007-10-19
グレイソ・ヌッサーヅ:3 (子どもと老人)
代表作「ごん狐」は若干二十歳の作。
それから10年余りで世を去り、
評価されるのにさらに10年。
数々の、というにはやはり物足りないが、
その小さな作品たちどれにも同居する
やさしさとかなしさは、いつの日もいつの時も
変わりなく人の心に住んでいることを教えてくれる。
晩年の作「狐」のおかあさんは、
もしぼくが狐になっちゃったら?という
子ども(文六ちゃん)の質問に、
自分も狐になって人里から離れる、と答える。
それで人に追われたら?には、
自分が捕まることで助ける、と語る。
どんなに過酷な状況になったとしても、そばにいてくれるという安心感、
いざというときには身を挺してくれるという信頼感を感じることが
できるからこそ、子どもたちはその後、かなしみもさみしさも乗り越え、
困難に立ち向かっていくことができるのだろう。
『自分が安心できる安全地帯は、過保護に守られるためにあるのではなく、
自由に新しい可能性を探索するためにこそある。』と茂木先生も
書かれていたっけ。(「脳の中の人生」中公新書ラクレ)
当然のことながら、子どもを守るというのは、大人の都合や大人の事情で
あってはならないし、自己犠牲を装った自己弁護という最悪のモンに
なってしまうのでは、なんだかここ数日、集中的に報道されているアレの
ごとく、本末転倒と言う他ありませんので要注意だな、と子どもどころか
嫁もおらぬのに考えたりして、、、。
文六ちゃんの問いかけを、おかあさんは真剣に耳を傾けた上で、やさしく
語りかける。稚拙だとか、非科学的だとか、あれこれ理屈をつけて話を
聞こうともせず、さらにはその口まで封じてしまうというような理不尽で
一方的かつ支配的な関係など当然のことながら、ここにはない。そっと
自身も涙をぬぐうところからそれがよくわかる。
こりゃ、マズいと扉の真正面ギリギリに寄りつつ、早く駅に着かないか、と
このくだりを読んでた自分も危うくポロリだった。もちろん、欠伸ですよ。
とにもかくにも、このステキな親子の対話と、どうして子どもは、狐になると
考えたのか、は本編をぜひ一読願いたい。子ども心がよくわかります。
新美南吉の作品は、大人になるためのステップとして、かなしみに触れる
という小さな通過儀礼が描かれているものが多い。たっぷりとやさしさを
吸収しているからこそ、次なる冒険の旅に出かけることができるのだが、
その行く先々で小さなかなしみに出会う。しかし、それらをひとつずつ越えた
あとの確信はどれも力強く、小さきものたちの大きな成長が見られるのだ。
『きょうのように人にすっぽかされるというようなことは、これからさき
いくらでもあるにちがいない。おれたちは、そんな悲しみになんべんあおうと、
平気な顔で通りこしていけばいいんだ。』「疣(いぼ)」(このあとの
「どかぁん」がサイコーなのだ!必読)
「かなしみは だれでも もって いるのだ わたしばかりでは ないのだ
わたしは わたしの かなしみを こらえていかなきゃ ならない」
「でんでんむしのかなしみ」
やさしさを受けたものは、悲しみを乗り越え、悲しみを乗り越えたものは
またやさしくできるのだろう。
『おとなになるというのは、ふざけるのをやめて、まじめになる約束の
ように思われました。なんとなくさみしい感じがしました。』「疣(いぼ)」
とすると、いまだにふざけてる人生を送っちゃったりしてるのは、大人に
成りきれていないということか、と恐縮しちゃうみなさん、いえ、私には、
処方箋が必要です。いい意味で、一生何かをふざけていくことでまじめに
まで転化した大人たち。まじめにふざけることができる匠の言行録を手元に
置いて、やさしさもかなしさも超える新たな道への一歩をいっしょに
踏み出してみましょうよ。
『本当に最期に死ぬときは年をとっていても、たとえ車イスになっても、
なにか心がロマンで燃えていて、なにか自分のやっていることで周囲に
感動を与えていて、喜ばれていて、惜しまれるなかをね、最期は
ニコって笑って、おやすみって言って僕は死にたいんですよね。』
オーバーセブンティで演歌歌手デヴューした玉ちゃんこと玉村静一郎氏の
名言↑をはじめ『エキセントリックで、パワフルで、まわりからどう
思われてるかなんて、生まれてからいちども気にしたことのないまま、
自分だけの世界を一生かけて築きあげて悔いのない、そういうじいさんたち』
の超絶メッセージを収録したのが都築さんの
著書「巡礼」です。今回もまた素晴らしい仕事っぷりに脱帽です。
またまた再放送だったCBSドキュメントで昨夜見たマイク・ウォレス
(昨年米CBSを退職した88歳、長寿番組「60ミニッツ」の看板インタヴュアー。
キング牧師、マルコムX、ケネディ、ホメイニ師、アラファト議長、江沢民、
バーンスタイン、パヴァロッティ、ジャニス、、、。誰にでも丁々発止の
やりとりが名物のスーパージャーナリスト)本人orインタヴューされた方々のよな
エラいひとにならなくてもいい。ただ狂ったじじい(ばばあも可)になればいい。
あ、ちなみに番組内で登場したホロヴィッツには感激した。ウォレスに頼まれた
”星条旗よ永遠なれ”を忘れたと頑なに拒み続けたかと思ったら、奥サマの
弾きなさい、の一言にしゅんとして弾き始めたかと思ったら、ものの数秒で
ノリノリになって、最期はウォレスともども大満足の大笑いになるのだった。
やっぱロシア系は違うな。というかこの人が違うのか。狂ってていいね。
大学のとき、ちょっとポリーニ好きだった自分も今じゃぜんぜんなのは、
カラダ同様、脳クレイジーさも年々メタボリック化してるってことの証明なのかも。
ま、これでよしとすることにします。、、、では最後にまた新美南吉より。
『世の中は理窟どおりにゃいかねえよ。いろいろふしぎなことがあるもんさ。』
「和太郎さんと牛」
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