2007-10-27

グレイソ・ヌッサーヅ:4 (祖父母と職業と身体)


これから本格的な寒さを迎える
北海道でひとり、はつらつとして
日々を過ごす母方の祖母は、
90歳を超えてまだまだ元気なもんだ、
とは母の弁。

他界して20年ほど経つ祖父は
青森から出て、祖母のいる北海道で
いっしょになり、昆布漁を主とする
漁師をしていた。

祖父母が暮らしていたのは襟裳岬にほど近い、浜に面した小さな家だった。
住居部分とその倍ほどの昆布を乾燥させるスペース。”コンブ小屋”と
呼ばれるそこはドライエリアとなるよう天井の高さがあり、剥き出しのままの
立派な柱のせいか、部屋はまるで小型の神殿造りのようだった。

天日で干されミネラルパワーを内に秘めた昆布たちは、グループ分けされ、
長さを切り揃えられるまでは麻ひもで束ねられた状態でブルーシートの下に
ひっそりと部屋の四方に山積みされる。

海と太陽の匂いが充満する小さな神殿の中には天使たちの乗り物があった。

太い梁に麻縄が2本、肩幅ほどの距離をあけ括り付けられ、伸びた先には
4、50cmほどの板が渡されていた。かわいい孫のためにと、祖父が作った
小さなブランコ。じいちゃん家には家の中にブランコがある、が子どもたちに
とって、どれほどの自慢だったことか!

祖父が亡くなるのと共に想い出がいっぱい詰まった”コンブ小屋”も
取り壊された。それは昆布漁ができる期間の仮住まいである、ということは、
子どものアタマでは、なかなか理解できず、冬に”本宅”に連れて行かれた
ときは、騙されたような妙な気分だった。(今も”本宅”に住む、ばあちゃん
には悪いんだけど)裸でいったん外に出てから入りに行く”五右衛門風呂”も
セットで、ボクにとって、じいちゃん家は、あの”コンブ小屋”だった。

なぜ、そんなことを思い出したのかと言えば、一昨日、いつものごとく
チャンネルをカチャカチャしてると、突然、”ソフトな”津軽弁が聴こえて
きたからだ。声の主はアーサー・ビナードさん。青森の詩人、
高木恭造の詩を津軽弁で読み、詳細な解説と、この詩に触れたいきさつを
流暢な日本語で説明されていた。そのゆるやかな話し方、訛りを交えた響きは
突如として、じいちゃんの声とシンクロした。祖父は青森と北海道の”ちゃんぽん”
というかハイブリッドな進化を遂げた(いい加減とも言う)言葉遣いだったから。

寺山修司ではないが、方言の復権をいまさらながら唱えちゃおうかな、とか、寛さん
でも聴くか、という、うれしなつかしの気持ちになったのであった。

【”音”で聴けないし、不親切なことに方言読みのルビもふってないけど
ビナードさんの素晴らしい日本語テクストはコチラで。(”声に出したい”
だとか、”美しい”だとか、半端な考察で言ってる方々の対極だね)】

祖父母に想いを馳せたついでに、ちょいと自分のルーツも考える。漁師の孫で
サラリーマンと専業主婦の子。だから、漁業組合の会計をやってます、、、と
なってたらアレなんだけど、そう単純にはいきません。性格や特性はともかく
気質の根っこみたいなものは見えるかな、って気もしたが、わかったことは
祖父母や両親の情報は思ってた以上に少ない、そもそも何も知らないってこと
だけがハッキリしてきた。まずは、ばあちゃんにいろいろ聞かねば。宿題にしよ。


しかし、思うに、世の中ってホントにいろんな”お仕事”があって、ずいぶんと
面白いことになってるなぁ、と子どものようなことを最近つくづく考えます。
-もしや、現状に対する不満があるのではないでしょうか。
この歳になっても、将来、何になろうかな、と考えているのですが。
-もはや、末期的な症状かもしれません。お薬、出しておきます。

というわけで、お仕事と職業と労働とジョブとワークとビジネスを考えるお薬です。

BRUTUS」 627号特集『スペシャルな仕事案内』
てっとり早く、ただいま発売中の雑誌から。”いやげ物”コレクターとして
みうらじゅん”ボク宝”氏が載ってるのは、いかがなもんかと思いますが
ニッチもさっちものところに新しい仕事が転がっているのかもしれません。

世にも奇妙な職業案内」「同・増感号」 ナンシー・リカ・シフ 著
カイシャとか企業に属することはマットウで、この本にある、赤ちゃん調教師や
におい鑑定人(あのCMのおばさま)、牡蠣剥き人やビンゴ読み上げ人、などが
キテレツとは思いませんが、確かに不思議かつ魅惑的なお仕事がいっぱい。

「お仕事いろいろ」 電気GRooVE 篇
古本屋でこの文庫を見つけたときはビビりました。どうみても男3人コスプレ
写真集です。子ども向けの体裁をとってはいますが、目線はシビアです。例えば

『病人=病気になっているお仕事です。 おもな仕事場は病院や自宅です。いっけん、
なんの社会的貢献もしていないように見えるお仕事ですが、病院や製薬会社の大切な
お得意さんで、そうぎやさんの潜在的顧客というみすごせないポジションにいます。』

非生産的と見られる病人も十分に社会的な価値はあると。もちろん個人的にも、ですね。
『頭って暴走しますからね。どこまでも暴走しうるのというのが頭のすばらしいところ
であって、その点、身体はきわめて保守的なんです。(中略)身体は暴走しないし、
妄想も抱かない。身体はある意味では鈍感な器官なんですよ。鈍感な器官だからこそ、
意図的に敏感にするように仕向けないと。』「健全な肉体に狂気は宿る」 内田樹 春日武彦 著

つまり、頭と身体のバランスが崩れると”頭が悪い”頭は身体に責任を転嫁しがちです。
そこで病気を通せば今一度、身体は敏感になったりするわけです。かくいう私も何度か
死にかけたことがございまして、それ以降は頭でっかちにならず、身体の方に耳を傾ける
ようにしておりますです、はい。もうしばらく乗っていくつもりなので仲良くしなきゃ。
(ちなみに、内田・春日両先生も、だから病気になれ、とは言ってません。当然ですが)

『病みつつある存在、それが人間です。そして、死につつある存在、それが人間です。
だとすると、老・病・死を敵視することは、自分自身を敵視することになります。
それは愚か者のすることです。』 「「狂い」のすすめ」 ひろさちや 著

あぶないあぶない。バカちんになるとこでした。頭がバカでもいいのですが身体がバカ
だと困ります。なので、やっぱりおクスリなら、ちゃんと身体に効くのがいいですね。

『テクノ・ユニット でんき・ぐる~う” 機械で音楽を作るお仕事です。 
おもな仕事場はスタジオやライブ会場です。分類上はいちおうミュージシャン
となっていますが、ちゃんちゃらおかしいことに楽譜も読めなければ楽器も
弾けません。すべて機械におまかせなので、テクニックもいらないのもすごく
ラクチンなお仕事です。ただし、テクニックがないというコンプレックスは強く、
なにかというと「センス」を強調したがります。』(同上)

すばらしい。ちなみに、高橋は、なにかというと「アイデア」を強調したがります。

では、みなさん今日も一日、いいおクスリ(音楽ですよ)で、キメましょう!
すべての、おシゴトがキモチよくなりますよーに!

2007-10-19

グレイソ・ヌッサーヅ:3 (子どもと老人)


代表作「ごん狐」は若干二十歳の作
それから10年余りで世を去り、
評価されるのにさらに10年。
数々の、というにはやはり物足りないが、
その小さな作品たちどれにも同居する
やさしさとかなしさは、いつの日もいつの時も
変わりなく人の心に住んでいることを教えてくれる。

晩年の作「狐」のおかあさんは、
もしぼくが狐になっちゃったら?という
子ども(文六ちゃん)の質問に、
自分も狐になって人里から離れる、と答える。
それで人に追われたら?には、
自分が捕まることで助ける、と語る。

どんなに過酷な状況になったとしても、そばにいてくれるという安心感、
いざというときには身を挺してくれるという信頼感を感じることが
できるからこそ、子どもたちはその後、かなしみもさみしさも乗り越え、
困難に立ち向かっていくことができるのだろう。
『自分が安心できる安全地帯は、過保護に守られるためにあるのではなく、
自由に新しい可能性を探索するためにこそある。』と茂木先生
書かれていたっけ。(「脳の中の人生」中公新書ラクレ)

当然のことながら、子どもを守るというのは、大人の都合や大人の事情で
あってはならないし、自己犠牲を装った自己弁護という最悪のモンに
なってしまうのでは、なんだかここ数日、集中的に報道されているアレの
ごとく、本末転倒と言う他ありませんので要注意だな、と子どもどころか
嫁もおらぬのに考えたりして、、、。

文六ちゃんの問いかけを、おかあさんは真剣に耳を傾けた上で、やさしく
語りかける。稚拙だとか、非科学的だとか、あれこれ理屈をつけて話を
聞こうともせず、さらにはその口まで封じてしまうというような理不尽で
一方的かつ支配的な関係など当然のことながら、ここにはない。そっと
自身も涙をぬぐうところからそれがよくわかる。

こりゃ、マズいと扉の真正面ギリギリに寄りつつ、早く駅に着かないか、と
このくだりを読んでた自分も危うくポロリだった。もちろん、欠伸ですよ。
とにもかくにも、このステキな親子の対話と、どうして子どもは、狐になると
考えたのか、は本編をぜひ一読願いたい。子ども心がよくわかります。

新美南吉の作品は、大人になるためのステップとして、かなしみに触れる
という小さな通過儀礼が描かれているものが多い。たっぷりとやさしさを
吸収しているからこそ、次なる冒険の旅に出かけることができるのだが、
その行く先々で小さなかなしみに出会う。しかし、それらをひとつずつ越えた
あとの確信はどれも力強く、小さきものたちの大きな成長が見られるのだ。

『きょうのように人にすっぽかされるというようなことは、これからさき
いくらでもあるにちがいない。おれたちは、そんな悲しみになんべんあおうと、
平気な顔で通りこしていけばいいんだ。』「疣(いぼ)」(このあとの
「どかぁん」がサイコーなのだ!必読)

「かなしみは だれでも もって いるのだ わたしばかりでは ないのだ
わたしは わたしの かなしみを こらえていかなきゃ ならない」
「でんでんむしのかなしみ」

やさしさを受けたものは、悲しみを乗り越え、悲しみを乗り越えたものは
またやさしくできるのだろう。


『おとなになるというのは、ふざけるのをやめて、まじめになる約束の
ように思われました。なんとなくさみしい感じがしました。』「疣(いぼ)」

とすると、いまだにふざけてる人生を送っちゃったりしてるのは、大人に
成りきれていないということか、と恐縮しちゃうみなさん、いえ、私には、
処方箋が必要です。いい意味で、一生何かをふざけていくことでまじめに
まで転化した大人たち。まじめにふざけることができる匠の言行録を手元に
置いて、やさしさもかなしさも超える新たな道への一歩をいっしょに
踏み出してみましょうよ。

『本当に最期に死ぬときは年をとっていても、たとえ車イスになっても、
なにか心がロマンで燃えていて、なにか自分のやっていることで周囲に
感動を与えていて、喜ばれていて、惜しまれるなかをね、最期は
ニコって笑って、おやすみって言って僕は死にたいんですよね。』

オーバーセブンティで演歌歌手デヴューした玉ちゃんこと玉村静一郎氏の
名言↑をはじめ『エキセントリックで、パワフルで、まわりからどう
思われてるかなんて、生まれてからいちども気にしたことのないまま、
自分だけの世界を一生かけて築きあげて悔いのない、そういうじいさんたち』
の超絶メッセージを収録したのが都築さん
著書「巡礼」です。今回もまた素晴らしい仕事っぷりに脱帽です。

またまた再放送だったCBSドキュメントで昨夜見たマイク・ウォレス
(昨年米CBSを退職した88歳、長寿番組「60ミニッツ」の看板インタヴュアー。
キング牧師マルコムXケネディホメイニ師アラファト議長江沢民
バーンスタインパヴァロッティジャニス、、、。誰にでも丁々発止の
やりとりが名物のスーパージャーナリスト)本人orインタヴューされた方々のよな
エラいひとにならなくてもいい。ただ狂ったじじい(ばばあも可)になればいい。

あ、ちなみに番組内で登場したホロヴィッツには感激した。ウォレスに頼まれた
”星条旗よ永遠なれ”を忘れたと頑なに拒み続けたかと思ったら、奥サマの
弾きなさい、の一言にしゅんとして弾き始めたかと思ったら、ものの数秒で
ノリノリになって、最期はウォレスともども大満足の大笑いになるのだった。

やっぱロシア系は違うな。というかこの人が違うのか。狂ってていいね。
大学のとき、ちょっとポリーニ好きだった自分も今じゃぜんぜんなのは、
カラダ同様、脳クレイジーさも年々メタボリック化してるってことの証明なのかも。
ま、これでよしとすることにします。、、、では最後にまた新美南吉より。

『世の中は理窟どおりにゃいかねえよ。いろいろふしぎなことがあるもんさ。』
「和太郎さんと牛」

2007-10-16

グレイソ・ヌッサーヅ:2 (私とスポーツ)


音楽で”熱くなりたい”という
気は当の昔に消え失せたが、
スポーツで、はずっと持続してたりする。

といっても”やる”じゃなくて、
もっぱら”みる”。それもテレビで。それも深夜に。
大学生の時のテニスかスキーどっちかが
最期に”やった”スポーツだ。

それ以降は、さらに何でも見ることにした。
それ以前は格闘技中心。※参考

新日全日も国際も女子も
柔道も相撲もボクシングもベニー”ジェット”ユキーデも見てた。

他は、あまりにも王道だった野球にはあまり興味持てなかったけど、
まだまだマイナー感の否めなかった、サッカー、中でも、ケンペス
ソクラテス、にグっときてたし。、、、南米好きだったんだな、今にして思えば。

バスケなどもやってたが(小・中に)それは背伸びると信じてたからで、
(前から2番目=”前へ倣え”で、かろうじて腰に手をあてないで
すんでたのが、高校入る前にちゃんと伸びた、胴中心に。75いった)
どっちかと言うと、昔っから見る方が好きだった。

スポーツの祭典、とにかくいっぱい見れるオリンピックはロス五輪
からハマった。女子バレーをメインで狂ったように応援したっけ。

で、現在、
熱狂の渦に身を置くのは苦手だし、逆にちょっと冷めちゃうぐらいだから
ミッドナイトに、それも一人、よしっ、って盛り上がるのがいい。

夜中のテレビのスポーツ中継って、やっぱり”深夜枠テイスト”で
垢抜けるか、成長するか、”当たる”とゴールデン
に進出ってことになるんだけど、この、密かな楽しみ感、勝手に
選手たちの成長願ってる感が魅力だったりするんだよね。
”いい時間”に行っちゃうとキモチ的にも物理的にも離れてしまうんだけど、
それまでは日曜日のお父さんのおシゴトのように夜中のテレビをハシゴだ。

パリダカ全女、芸能人女子フットサル
(→スフィアリーグ、→すかいらーくグループ)...。
忘却の彼方へ旅立ったものから、発展途上の進行形のものまで。

継続組は、夜中のスポーツ中継の看板番組、F1は、
ホントずーっと。タイレル(ティレルじゃないよ、あくまで)の6輪
にときめいたから。

いろんな意味で荒れた2007年だったなぁ。あ、最終戦が残ってるか。
チャンピオンは誰がなってもいい。パイロット自身の能力は皆スゴい。
だから”政治”で動くのは興ざめ。だったらエンジン音のみの中継で
何も知らない方がいい。

モータースポーツなら他にはモトGP。バイク乗りだった(TS-250)から
レースは気になる。今回のノリックの件は本当に残念。
サーキットの外ってことにさらに胸が痛む。

残念と言えば、驚異的な快進撃を毎回見せてたからねぇ、長兄がさ。
何年前だ、あれ?スゲーのが来たなぁ、って思って見てたからなぁ。
せっかく、大ベテランのお兄さんの胸借りれたのになぁ。
真ん中くんは、もったいないことしたよ。

お兄ちゃんも当時者の弟くんも、当然のことながら誰よりも、宇宙一
強くなりたいのだろう。そしたら、大人のイヤラシイ世界にこれ以上付き合わず
外に出たらいい。ついでに親離れ、子離れもできるし。大海を知れる。
HIROYAくんしかり、錦織くんしかり、きっとホンモノになるよ。

ちっちゃい時は、めーいっぱい甘やかして、甘えて、やすらぎの地を
作って、もらったらいいんだと、「新美南吉童話集」読んでて思った。
それがあればその後、思い切って外に飛び出せる。

「おじいさんのランプ」の一文。「おとなが、こうして遊べといったことを、
いわれたままに遊ぶというのはなんとなくばかげているように子どもには
思えるのである。」

ここからが勝負。安心の上に孤独をもって立ち向かう、そいつが大人だ、と
新美南吉のお話を読んでいるとつくづく思う今日この頃。 つづく

2007-10-13

グレイソ・ヌッサーヅ:1 (ボクの「ボク宝」)


深夜のCBSのドキュメント

ホロコーストがテーマの再放送。
驚愕の事実に、一度見たにも関わらずまた、しょぼん。

二度と消せない腕の刻印も当然だが、この耐え難き記憶は酷すぎる。
早いとこ資料を精査して、生き残っていらっしゃる方には
手厚い保障と同時に生の証言を残してほしいと願います。。。

見るものなくNHKへ。「世界遺産」(今回は「夢と理想のシンボル
~アメリカ・自由の女神像~」)やってた。
パキスタンのタクシー運転手さんが自身の生活in NYを語る。

自国で政治に身を投じ、追われ、新天地の夢を見て、また9.11以降
憂き目に遭う。チャイ1杯の”昼”だけで12時間勤務。同じ車を使う
相方と交代し、深夜ようやくデリで食事。祖国の娘さんを、
アメリカの大学に行かせるんだ、と疲労困憊の中にもやさしい笑顔。

しっかし、デリの食事はウマそうだ。そういえば、ちょっと前に見た
「アジア語学紀行」のネパール編に出てきた”モモ”にもよだれがダラダラだった。
どういうわけか、視覚や聴覚以外の感覚もキャッチできちゃうってのは不思議だね。
テレビ見てよだれが出る、を脳科学的に説明したらどうなるの?
ミラーニューロンとかってヤツのせいかな???

アジア各国の料理に目がないので、あちこち食べに行くけれど(@東京23区)
あの猥雑な感じもセットで、香港へ、それもチョンキンマンション(重慶大厦)
に、そこでわざわざインド料理を時々無性に食べたくなるよ。

けっきょく、香港で一番の思い出がホテルにあるんじゃ、修学旅行の
高校生となんら変わらないような気もするが、あんな絵に描いたような
カオスを味わえるのは、なかなかない。

多数のインド、アフリカ勢、パックツアーなどとは一生カンケーねー感じの
世界中の旅行者と、衣食住すべてにまつわるジャンクもアリの色とりどりの
品々と、ここ数日、歩けば出くわすキンモクセイに負けないスパイシーな芳香が、
山のようなVCDやDVDからもプンプンしてたっけ。全身使うと記憶も濃いね。

そういえば香港で出会った”電子念仏機”のことを以前あれこれ書いたが、
どういうわけだか日本では夏に東急ハンズが突然売り出した。(この時だけだったようだが)

バイヤーさんの目論見は何だったんだろう?お盆は過ぎてたと思うけど
よっぽど信心深い方が突然思いついたのかなぁ?ま、おまつりごとが
なくたって、お祈りは毎日だから、必要な方にはいつでも必要なんだろうけど、
なぜ、急に、日本で、ねぇ。。。

思うに(たぶん違うだろうが)たまたま部屋に積んであった「ボク宝」みうらじゅん著を
読んだのではなかろうか?なぜなら10年前に文庫化もされたこの本の中には、
一項目として”電子念仏機”のページがあるからね。他にわざわざページを割くような
モンって、ないでしょ、きっと。”電子念仏機”などに、さ。

国宝ならぬ”ボク宝”。敬愛する、みうらじゅん氏は「どこかの誰かさんの
価値観や、多数意見で決められている宝、ボクには何の関係もない。」とし、
自身の”好き”だけで、ボクの宝を決めると高らかに宣言する。もちろん私も
全面的に支持させていただきますっ!

「ボク宝」で扱われているものは、モノ・コト・ヒト、多岐に渡るのだが、
そのすべては”ボク宝”宣言に掲げられている通り”愛”に満ちあふれている。
安斎肇」と、今ではすっかり競技会化した”エア・ギター”の10年以上前から
”アン・プライド”(プライドをかなぐり捨て、飲み屋で楽器も
持たずプレイ、アンプラグドから)を敢行し、何度も出版が幻となっている
「エロ・スクラップ」は、日本エロ雑誌の歴史を期せずして編纂することとなり、
ブルース・リー」になるべく、”通信空手家”の研鑽を積み重ね、「怪獣スクラップ」にいたっては
作り手兼受け手である自身を『完成品を一番早く見られるボクは世界一の幸せ者の
読者だったに違いない』とし、さらに「アルバム」の中では『夜、完成したアルバム
(ボクはそう呼んだ)をイヤホンで聴きながら寝るのが一番、幸せな時。ボクは
世界中で一番、ボクの歌のファンだった』との確信にいたる。

どんなにカラ回りしても、たとえ情熱と信念と妄想が入り乱れても、ボクの宝を
求め、ボクの宝と共に邁進する、みうらさんはステキ過ぎる。「マンガ家入門」で
何度も作品がボツになるけれど『泣きそうになりながらボクは、世の中が甘くないん
じゃなくて、世の中を甘く見ていた自分を知った』と気づく。大人ってステキだ。

自分の”好き”が誰かの”好き”であることも多々あるだろう。その自分と誰かの
”好き”が、またまた別の誰かの”好き”ってこともあるに違いない。にしても、
世の中そういうことがちょっと多すぎやしないか。簡単に同志になれちゃうなんて、
どーしたモンだろ(すみません)。

愛深く、志高く、孤独を怖れず、むやみに細分化せず、特定専門領域を持たず、
ヨソ様に何言われても、ヨン様が忘れ去られても、ボクは「ボク宝」級なあれこれを
探し続けます。そして、みうらじゅん氏を「ボク宝」に指定させていただきます!